30年前の世の中と今はだいぶ違います。30年前を覚えている人にとっては、携帯やスマホもさることながらカーナビやテレビの薄さだって隔世の感があることでしょう。医療も30年するとだいぶ進歩しますが医療の進歩は一般的な科学技術の進歩とはちょっと違います。もちろんテクノロジーも進歩するので昔は存在しなかった薬が開発されたり、様々な新しい機械も生み出されたりしました。そうした一方で昔はやっていたのに今はやらなくなった・・・という形の進歩(?)が外科の分野にはあります。今回はそうした進歩を2つばかり紹介したいと思います。
一つ目は傷口の消毒です。怪我をしたり手術したりしてできた傷を以前では毎日消毒していました。とくに怪我の場合は消毒液が傷口にしみるので患者さんにとっては苦痛であったはずですが、「これしないと傷口が化膿してしまうから」と医者に言われて苦行を受け入れていたかもしれません。しかしながら、我慢して耐えていたこの傷口の消毒という苦行、やってもやらなくても変わらないということが比較研究で分かったので、いまでは行う病院はほとんどありません。いままでの我慢はなんだったのでしょうか?
それどころか、以前は「抜糸するまでは傷口を洗ったりお風呂に入ったりしないでください」と医者が言っていたのですが、今では「傷口を縫って2日すれば、お風呂もシャワーもいいですよ」とか「傷口は石鹸でよく洗ってくださいね」などと説明するようになりました。もはや完全に逆です。
つまり”新しいことができるようになる”という形の進歩もあれば、”やらなくてもいいことを省く”という形の進歩もあるのです。そうすることによって、不要な苦痛は減り、治療にかける手間もお金も減るので空いた労力とお金を他に使うことができます。
二つ目は癌の手術です。近年のメディアでは「低侵襲の腹腔鏡手術」とか「ロボット手術」などを紹介しています。もちろんこれはこれで大きな科学の進歩です。ただし、ここで紹介するのはそうではなく”癌の手術で切り取る部分の範囲”についてです。40年以上前に乳がんにかかった人は”乳房を全部とってその下の胸の筋肉も一緒にとって、腋のリンパ節もごっそり取って”というタイプの手術を受けていました。手術した側の胸はろっ骨が透けて見えて、腕は反対側にくらべて2倍くらいに太くなって・・・となってしまった方もいることでしょう。
癌はせっかく手術をしても治らない人がいる病気(この部分はいまでも変わりません)なので、ちょっとでも治る率を高くするためによりたくさんの組織を切除した方がいいのではないか・・と当時は考えていたのです。その後、胸の筋肉をとってもとらなくても治る率は変わらないと分かったので胸の筋肉はとらなくなりました。乳房全部とった場合と、部分的にとって放射線治療した場合も変わらないので乳房を全部とらなくてもよくなりました。さらに、腋のリンパ節も必ずしも全部のケースで取らなくてもいいということもわかってきました。あんなにいっぱい取っていたのはなんだったのか??という感じです。
しかしこの変化(進歩)により患者さんの苦痛は減り、入院期間は減りました。患者数の多い乳がん治療の研究はパイロットスタディー(癌全体にとってのモデルケースのような研究)なので同様の変化は他の癌手術にも影響しています。
これらの進歩は”医者が独自の考えで患者によかれ”と思ってやっていたことが、比較試験(それをやる人とやらない人で差があるか)をしたみたところその効果が証明されなかった。という研究結果に基づいています。つまり、昔は偉いお医者さんが「こうしろ!」と言っていたことをやっていたのですが、今は”研究結果”に基づいたことを実践する・・という風に変わってきました。科学研究の成果を日常診療に取り入れるという、今にしてみれば当たり前のことがこの30年間で変わってきたのが外科分野で大きな進歩と言えます。
ちなみに傷口の消毒をしても化膿する率は変わらない・・という事実は米国では1970年代後半には浸透していましたが、日本で実践されるまでにはその後20年ほどを要しました。乳房切除の縮小は日本での実践までに10年ほどを要しています。この30年で世の中の情報環境は大きくかわりつつあり、今では世界基準で実践されている標準治療は1年ほどで日本にも導入されるのが普通となってきました。薬にせよ、治療にせよ「何かやってほしい!」と切望する患者さんにとってはちょっと物足りないかもしれませんが、”やらない”という選択を提示する医者はもしかしたら最新の研究を勉強している人かもしれません。